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当協会はプロパンガス(LPガス)の事業者間で価格競争を促し、高騰しているガス料金を適正な価格へと促していく事を目的としています。


by propane-gas

神奈川県相模原市のプロパンガス料金・価格比較 ~プロパンガス協会~

プロパンガス協会



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平均額:1500円

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平均額=477円
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【月間金額】
当協会=4800円
平均額=6270円

【年間金額】
当協会=57600円
平均額=75240円

【トータル】
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年間差額=17640円

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相模原市について

▼地理
相模原市(さがみはらし)は、神奈川県北部にある政令指定都市。緑区、中央区、南区の3区で構成される。
2006年3月の合併以前の旧相模原市域は、隣接する町田市との経済的・地理的・文化的関わりが深く、共に業務核都市に一つの都市として指定されていた。近年、東京都心へ旧市域南部の相模大野から30分ほど、旧市域北部の橋本から40分ほどで行けるその交通の利便性から、東京のベッドタウンとしての人気が高まり人口が爆発的に伸びている。特に20代、30代、50代周辺の人口が多く、市全体を活気ある雰囲気にしている。

市内には相模原公園や相模原北公園をはじめとした大規模な公園が点在していることや、比較的自然な環境が近いことなどから若年世帯を中心とした人口の流入が続いている。市内に大学が多いことや、周辺都市の大学も相模原市内の駅を最寄とする場合が多く、更に多数の大学を抱える八王子市への交通が便利なため、学生の街としての顔も併せ持つ。また、市内には宇宙航空研究開発機構(JAXA)宇宙科学研究所相模原キャンパス(開所時は文部省宇宙科学研究所)があり、日本の宇宙科学の研究拠点として知られる。

また編入した旧津久井郡4町のうち、城山町と津久井町は橋本駅を最寄り駅として利用しており、国道413号(津久井街道)を介して相模原市中心部との結びつきがあるのに対し、相模湖町と藤野町は相模原市中心部よりも、JR中央本線や国道20号(甲州街道)を介して、八王子市との結びつきの方が強い。

段丘上の平坦地に対して相模川の谷底の平坦地(谷底平野)の発達は悪い。この地形を利用して1947年(昭和22年)に相模ダムが、また1965年(昭和40年)には城山ダムが建設され、それぞれのダムによる人造湖として相模湖および津久井湖が形成された。道志川には1955年(昭和30年)に道志ダム(奥相模湖)が建設され、また2000年(平成12年)に完成した中津川の宮ヶ瀬ダムのダム湖(宮ヶ瀬湖)の一部は津久井町にかかっている。これらのダム湖、および川尻地区北部(旧城山町)のヤト(谷戸)の奥に本沢ダムを築いて津久井湖から汲み上げた水を貯めて作られた城山湖との間は導水路で結ばれ、一体的な水資源管理が行われている。

▼沿革
相模原市発足までの沿革
1889年(明治22年)4月1日-町村制施行により高座郡相原村・麻溝村・新磯村・大沢村・大野村・溝村が誕生する。旧田名村は単独で町村制による田名村となった。相原村、橋本村、小山村、清兵衛新田の合併により相原村が誕生する。
当麻村、下溝村の合併により麻溝村が誕生する。
新戸村、磯部村の合併により新磯村が誕生する。
大島村、下九沢村、上九沢村の合併により大沢村が誕生する。
上矢部村、矢部新田村、淵野辺村、鵜野森村、上鶴間村の合併により大野村が誕生する。
上溝村が溝村と名称変更する。

1926年(大正15年)1月1日-溝村に町制が施行され、上溝町が誕生する。
1941年(昭和16年)4月29日相原村、麻溝村、新磯村、大沢村、大野村、上溝町、座間町、田名村の新設合併により相模原町が誕生する。町役場を淵野辺に置く。人口3万9,718、面積107.99km²。合併当時は「全国一面積の広い町」であった。
1941年(昭和16年)9月1日町役場を上溝(旧上溝町役場)に移転
1948年(昭和23年)9月1日座間町が分立する。面積90.77km²となる。
1954年(昭和29年)4月29日町役場を清兵衛新田(現在地)に移転。

相模原市発足以降の沿革
昭和40年代まで1954年(昭和29年)11月20日市制が施行され、相模原市となる。人口8万0,374(全国で453番目、県下で10番目)。
1955年(昭和30年)7月11日工場誘致条例を制定する(1961年(昭和36年)3月1日廃止)。
1957年(昭和32年)11月24日市立体育館が開設される。
1958年(昭和33年)1月1日消防本部を設置する。
1958年(昭和33年)1月15日市民の歌を制定する。
1958年(昭和33年)8月1日首都圏整備法による市街地開発区域の指定を受ける。
1960年(昭和35年)6月1日人口が10万を超える。
1961年(昭和36年)1月1日市営工業用水道が完成する。
1962年(昭和37年)2月20日交通安全都市宣言を制定する。
1962年(昭和37年)6月14日相模原市開発公社(現:(財)相模原市都市整備公社)が設立される。
1962年(昭和37年)12月13日清掃事業所(現:東清掃事業所)が開設される。
1963年(昭和38年)7月18日消防署に救急車を配備、救急業務を開始する。
1963年(昭和38年)10月18日相模原市農業協同組合が設立される。
1964年(昭和39年)1月30日日本電信電話公社(当時)相模原電報電話局が開設される。
1964年(昭和39年)3月16日相模原郵便局が開設される(市内初の普通郵便局)。
1964年(昭和39年)5月1日住居表示を開始する。
1964年(昭和39年)11月20日市制10周年事業として相模原市史発刊を開始する(1972年(昭和47年)全7巻で完了)。
1965年(昭和40年)3月1日市営火葬場が開設される。
1965年(昭和40年)11月20日市立市民会館(相模原市民会館)が開設される。
1967年(昭和42年)6月15日相模原商工会館が開設される。
1967年(昭和42年)8月28日人口が20万を超える。
1967年(昭和42年)8月公共下水道事業を開始する。
1968年(昭和43年)3月1日市の木「けやき」を制定する。
1968年(昭和43年)5月1日市立青年の家が開設される。
1968年(昭和43年)6月26日第1次相模原市総合計画を策定する。
1968年(昭和43年)7月1日市民プールが開設される。
1969年(昭和44年)7月31日座間小銃射撃場が日本政府に全面返還される。
1969年(昭和44年)8月31日市役所本庁舎(現庁舎)が完成する。
1970年(昭和45年)7月1日給食施設のない小中学校のため、南部学校給食センターが開設される。
1971年(昭和46年)7月5日人口が30万を超える。
1971年(昭和46年)7月26日北里大学病院が開院する。
1972年(昭和47年)2月21日相模大野駅周辺土地区画整理事業が始まる。
1972年(昭和47年)5月米軍戦車搬出阻止運動が起こる(〜11月)。
1972年(昭和47年)7月1日消防本部新庁舎が完成する。
1972年(昭和47年)9月1日市立老人福祉センター「渓松園」が開設される。
1973年(昭和48年)5月1日保存樹林第1号を指定する。
1973年(昭和48年)7月20日相模原メヂカルセンター(急病診療所)が開設される。
1974年(昭和49年)3月第2次相模原市総合計画を策定する。
1974年(昭和49年)4月6日市制施行20周年を記念して、第1回市民桜まつりが開催される(〜7日)。
1974年(昭和49年)11月20日市立図書館が現在地に開設される。
1974年(昭和49年)11月20日市の花「あじさい」、市の鳥「ひばり」を制定する。
1974年(昭和49年)11月30日キャンプ淵野辺が日本政府に全面返還される。
1975年(昭和50年)3月31日市財政白書「こども急増びんぼう白書」を発行する。
1975年(昭和50年)4月1日市立療育センター「陽光園」(心身障害者訓練センター)が開設される。
1976年(昭和51年)6月19日夜間急患診療を開始する。
1977年(昭和52年)6月6日人口が40万を超える。
1977年(昭和52年)11月1日人口が横須賀市を抜き、人口規模で県内第3位になる。
1979年(昭和54年)4月13日いきがい事業団が発足する。
1979年(昭和54年)4月27日県立相模原公園が開設される。
1979年(昭和54年)5月13日市のシンボルカラー「みどり」を制定する。
1979年(昭和54年)7月1日公共下水道処理を開始する。
1979年(昭和54年)11月18日市民憲章を制定する。
1980年(昭和55年)9月27日日本国有鉄道(当時)横浜線の複線化が市内全区間で完成する。
1980年(昭和55年)12月6日南清掃工場が完成する。
1981年(昭和56年)4月1日米陸軍医療センターが日本政府に全面返還される。
1981年(昭和56年)4月10日市立市民福祉会館(相模原市立あじさい会館)が開設される。
1981年(昭和56年)5月1日行政用同報防災無線「ひばり放送」が開始される。
1981年(昭和56年)11月1日市立総合体育館が開設される。
1982年(昭和57年)4月9日相模原市が障害者福祉都市に指定される。
1982年(昭和57年)12月5日買物公園道路「グリーンプラザさがみはら」が完成する。
1983年(昭和58年)8月29日市域南部の行政拠点となる市南合同庁舎が完成する。
1983年(昭和58年)11月18日市立市民健康文化センターが開設される。
1984年(昭和59年)4月1日市みどりのまちづくり基金と緑地保全基金を制定する。
1984年(昭和59年)6月1日長野県に「市民たてしな自然の村」が開村される。
1984年(昭和59年)12月3日核兵器廃絶平和都市を宣言する。
1985年(昭和60年)2月第3次相模原市総合基本計画を策定する。
1985年(昭和60年)9月18日市立けやき会館、市立けやき体育館が開設される。
1985年(昭和60年)10月6日中国・無錫市と友好都市を締結する。
1985年(昭和60年)11月16日国民年金保養センター「さがみの」が開設される。
1985年(昭和60年)11月17日市立相模原麻溝公園が開設、ふれあい動物広場が利用開始される。
1986年(昭和61年)7月1日公文書公開制度が開始される。
1986年(昭和61年)10月18日市立教育会館が開設される。
1987年(昭和62年)1月5日住民登録オンラインが開始される。
1987年(昭和62年)3月市営工業用水道が廃止される。
1987年(昭和62年)4月1日市立ひばり球場、県立相模原球場が開設される。
1987年(昭和62年)8月10日人口が50万を超える(全国で22番目)。
1987年(昭和62年)11月8日友好都市関係として銀河連邦をつくり、サガミハラ共和国が建国する。
1987年(昭和62年)11月15日市立相模川ふれあい科学館が開設される。
1988年(昭和63年)3月13日JR東日本横浜線古淵駅が開業する。
1988年(昭和63年)10月1日複合都市「ロビーシティ相模大野」が発足する。
1988年(昭和63年)11月1日初めての有料市営駐車場、相模大野立体駐車場が完成する。
1989年(平成元年)以降1989年(平成元年)4月1日文部省(当時)宇宙科学研究所が移転する。
1989年(平成元年)4月28日(財)市民文化財団が発足する。
1989年(平成元年)10月26日(財)相模原市体育協会が発足する。
1989年(平成元年)12月1日相模原南メヂカルセンター(急病診療所)がグリーンホール相模大野内に開設される。
1990年(平成2年)1月8日市立文化会館がグリーンホール相模大野内に開設される。
1990年(平成2年)1月9日市立相模大野図書館がグリーンホール相模大野内に開設される。
1990年(平成2年)3月30日京王帝都電鉄(当時)相模原線が、部分開業していた南大沢駅より延伸し、京王相模原線橋本駅が開業する。
1990年(平成2年)5月14日消防指令センターが完成する。
1990年(平成2年)9月25日市内初の百貨店、伊勢丹相模原店が開店する。
1991年(平成3年)1月20日市立淵野辺公園アイススケート場・水泳プール(銀河アリーナ)が開設される。
1991年(平成3年)3月16日JR東日本相模線が電化完成する。
1991年(平成3年)5月31日カナダの旧スカボロ市(現トロント市)と友好都市提携。
1991年(平成3年)9月8日市立北総合体育館が開設される。
1991年(平成3年)12月1日北清掃工場が完成する。
1992年(平成4年)7月4日さがみはら男女平等憲章を制定する。
1992年(平成4年)8月19日(財)みどりの協会が発足する。
1992年(平成4年)8月21日(財)産業振興財団が発足する。
1992年(平成4年)10月3日第9回全国都市緑化神奈川フェアが開催される(グリーンウェーブ・相模原'92)。
1992年(平成4年)10月26日市営斎場が完成する。
1992年(平成4年)11月20日相模原市環境宣言を制定する。
1993年(平成5年)4月5日粗大ごみの戸別収集を開始する。
1993年(平成5年)4月12日市立産業会館が開設される。
1995年(平成7年)11月20日市立博物館が開設される。
1996年(平成8年)4月20日市立相模川自然の村公園が開設される。
1997年(平成9年)5月20日市立総合水泳場(さがみはらグリーンプール)が開設される。
1997年(平成9年)8月1日市公式Webサイトが開設される。
1997年(平成9年)11月1日相模原市民ギャラリーが開設される。
1998年(平成10年)9月12日さがみはらグリーンプールを会場に、かながわ・ゆめ国体夏季大会が開幕する(〜15日)。
1998年(平成10年)11月3日電話番号の逼迫対策に伴い、市内(磯部、新磯野1丁目、3丁目-5丁目、新戸、相武台及び相武台団地を除く)の市外局番が「0427」から「042」に、市内局番が「XX」から「7XX」に変更される。
1999年(平成11年)5月3日市立北市民健康文化センター(さがみはら北の丘センター)が開設される。
1999年(平成11年)7月20日電話番号の逼迫対策に伴い、市内(磯部、新磯野1丁目、3丁目-5丁目、新戸、相武台及び相武台団地)の市外局番が「0462」から「046」に、市内局番が「XX」から「2XX」に変更される。
1999年(平成11年)12月1日境川の河川改修に伴い、東京都町田市及び神奈川県大和市との境界の一部を変更し、市面積が90.41km²に減少する。
2000年(平成12年)4月1日保健所政令市に指定されたことから、相模原市保健所が開設される。
2000年(平成12年)5月29日人口が60万を超える。
2000年(平成12年)7月8日さがみはら男女共同参画都市宣言を制定する。
2000年(平成12年)10月28日さがみはら健康都市宣言を制定する。
2000年(平成12年)11月20日市が事務事業に「ISO14001環境マネジメントシステム」を導入、認証される。
2001年(平成13年)4月5日児童数減少に伴う市内初の市立小学校の統廃合を実施する。市立北相武台小学校と市立磯野台小学校とが統合し、市立もえぎ台小学校が開校(校舎は北相武台小学校を使用)。
2001年(平成13年)4月21日市立総合学習センターが開設される。
2001年(平成13年)6月30日小児科医による休日・夜間急病診療が開始される。
2001年(平成13年)7月1日市が外部監査制度を導入する。
2001年(平成13年)9月29日市立杜のホールはしもと・市立橋本図書館が開設される。
2003年(平成15年)4月1日中核市に指定される。
2003年(平成15年)4月1日「相模原メヂカルセンター」及び「相模原南メヂカルセンター」が「相模原メディカルセンター」及び「相模原南メディカルセンター」に改称される。
2003年(平成15年)10月11日青山学院大学相模原キャンパスが淵野辺に開校する。
2003年(平成15年)12月1日市内のバス路線が大幅に再編される。これに伴い、33系統・51バス停留所が廃止、4系統が新設、既存の6系統が大幅増発となる。
2004年(平成16年)2月1日上鶴間地区の一部で住居表示を実施、上鶴間本町が新設される。これにより、米軍基地を除く市内の上段部分の住居表示は全て完了となった。
2004年(平成16年)11月1日小田急線小田急相模原駅北口市街地再開発事業が着工する。
2004年(平成16年)11月20日市制50周年。
2004年(平成16年)12月1日境川の河川改修に伴い、東京都町田市との境界の一部を変更し、市面積が90.40km²に減少する。相模原市民16世帯41人が東京都町田市民となる。
2005年(平成17年)7月13日市内公共施設(60ヶ所)にAED(自動体外式除細動器)を配置する。
2006年(平成18年)1月30日コミュニティバス実証運行を開始する。交通不便地区における高齢者等、移動に制約のある市民の生活交通を確保するため、市が主体となって計画。運行業務は相模神奈交バスに委託し、2年間を期限として実験的に実施。経路は、JR東日本橋本駅南口-北の丘センター-北総合体育館-相模川自然の村までの約7kmで、所要時間は片道約30分。運行本数は、上り下りとも8時台-18時台まで、1時間に1本ずつ運行される。
2006年(平成18年)3月20日津久井郡津久井町、津久井郡相模湖町を編入合併する。旧町の各区域に地域自治区を設置。市面積が244.04km²となり、面積規模で県内第2位になる。旧津久井町の姉妹都市であるカナダのトレイル市と継続して友好都市を提携する。
2006年(平成18年)4月1日市立環境情報センターが開設される。
2006年(平成18年)4月1日市が設置した文化施設・福祉施設・体育施設に指定管理者制度を本格的に導入する。
2006年(平成18年)5月1日日米安全保障協議委員会で相模総合補給廠の一部返還等が基本合意される。
2006年(平成18年)10月1日市コールセンターが開設される。
2007年(平成19年)3月11日津久井郡藤野町、津久井郡城山町を編入合併する。旧町の各区域に地域自治区を設置。市面積が328.84km²となる。人口が合併特例の政令指定都市昇格要件70万人を超える。
2007年(平成19年)4月1日政令指定都市移行を視野に入れて市組織に局制が導入される。
2008年(平成20年)4月23日さがみはら新都心整備構想を発表する(相模総合補給廠一部返還後の跡地利用計画)。
2009年(平成21年)10月23日相模原市が政令指定都市に昇格することが閣議決定される。
2009年(平成21年)12月21日区名が正式に決定する(緑区、中央区、南区)。
2010年(平成22年)4月1日政令指定都市に正式に移行(日本国内19番目)。それに伴い、市内全域において郵便番号が「228-08xx」及び「229-xxxx」から「252-0xxx」に変更される。
2010年(平成22年)12月1日境川の河川改修に伴い、東京都町田市との境界の一部を変更し、市面積が328.83km²に減少する。
2011年(平成23年)5月15日区ごとのシンボルカラーおよびシンボルマークが発表される。

▼歴史
相模国の北部に位置し、旧相模原市域は高座郡に属した。津久井地域の大部分は中世まで愛甲郡に属し「奥三保」と呼ばれていたが(相模川左岸の津久井町三井および城山町北部は高座郡)、江戸時代には同郡から分離して津久井県と称し、1870年(明治3年)に津久井郡と改称された。

なお、この項では2006-2007年の旧津久井郡4町との合併までは主に旧相模原市域について述べる。津久井地域の歴史については津久井郡の項を参照。

先史・古代から中世
相模川沿いの段丘上には古くからの人々の生活の痕跡が認められるが、市域でも後期旧石器時代末の建物跡とされる田名向原遺跡や、縄文時代中期の大規模集落跡である勝坂遺跡が分布する。
文献資料においては、平安時代中期に編纂された『和名類聚抄』(『和名抄』)で相模国高座(たかくら)郡に設置されたと記載されている13郷1駅のうち塩田郷(読みはシホタ)が旧市域内に位置していると比定されている。現在、旧市域南西部の田名地区内の集落名「塩田」が、古代の郷名を継承するものであると考えられている。
平安時代後期から鎌倉時代にかけて、市域は武蔵国多摩郡に成立した横山荘を本拠に同国西南部から相模国北部にかけて割拠した同族的武士団である横山党の勢力下にあり、同武士団の中には粟飯原(相原)、小山、矢部、田名など旧市域北部の地名に由来する名字が見られる。また、旧市域南部は高座郡渋谷荘を本拠とする渋谷氏の勢力下にあった。
鎌倉時代後期には、当麻に時衆教団(時宗)の道場(無量光寺)が開かれた。
室町時代には上杉氏、戦国時代には北条氏の支配下であった。

近世

幕藩支配

江戸時代初期の1633年(寛永10年)には旧市域西部の相模川沿いの村が武蔵忍藩の飛地領とされ、残りの村は幕府直轄領(天領)または旗本の支配地とされたが、時代が下るにつれて支配が細分化されて非常に錯綜したものになっていった。旗本領とされた村の多くは2家以上が支配する相給とされ、幕府あるいは藩との相給とされる村もあった。幕末の段階で1藩単独の支配となっていたのは、旧市域では下野烏山藩領の上矢部村、大島村、田名村の3村のみである。また、清兵衛新田が幕府単独の、上九沢村が旗本佐野家のみの支配を受けていた。

1867年(慶応3年)の大政奉還時点での旧市域各村の支配は以下の通りである。
相原村-旗本領(佐野家、藤沢家)
橋本村-旗本領(藤沢家、別所家、石野家、高木家)
小山村-幕府領、烏山藩領
清兵衛新田-幕府領
上矢部村-烏山藩領
矢部新田村-烏山藩領、旗本領(鈴木家)
淵野辺村-幕府領、烏山藩領、旗本領(岡野氏2家)
鵜野森村-幕府領、旗本領(永井家)
上鶴間村-幕府領、旗本領(大岡家)
上九沢村-旗本領(佐野家)
下九沢村-旗本領(佐野家、加藤家)
大島村-烏山藩領
田名村-烏山藩領
上溝村-幕府領、烏山藩領、旗本領(石野家、森川家、戸田家、高木家、佐野家)
下溝村-幕府領、烏山藩領、荻野山中藩領
当麻村-幕府領、旗本領(千葉家、大久保家)
新戸村-幕府領、旗本領(土屋家、岡部家)
磯部村-幕府領、旗本領(町野家、大津家、大久保家)

これらのうち、幕府領および旗本領は、1868年(慶応4=明治元年)に神奈川府(のち神奈川県)が設置されると、その管轄となった。また、1871年(明治4年)7月の廃藩置県によって、烏山藩領は烏山県、荻野山中藩領は荻野山中県の管轄となったが、同年11月の府県再編によって神奈川県に編入された。
wikipedia相模原市HPより抜粋
by propane-gas | 2013-02-19 13:43 | 神奈川県のプロパンガス料金価格調査